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講義No.01387

天下分け目じゃなかった関ヶ原

関ヶ原後は東西に2つの政権が成立

 1600年に起きた関ヶ原の戦いは「天下分け目の関ヶ原」と呼ばれ、徳川家康が勝って天下を統一したと言われています。しかし、歴史学者の笠谷和比古氏は、関ヶ原では雌雄は決しなかったと主張しています。
 関ケ原後、西日本は豊臣大名たちの勢力下となり、日本には江戸と大坂にそれぞれ公儀(政府)が存在したと言うのです。確かに、豊臣秀頼の大坂政権は朝廷との関係を幕府とは別に保ち、公儀としての振る舞いをしていました。また、家康は関ヶ原後、孫の千姫を秀頼に嫁に出しています。関ヶ原で勝った強い立場ならば、豊臣に対して気を使わなくてもよく、人質とも言える嫁に出す必要はありません。二重公儀の状態であったのは、ここからも明らかです。ただ、その状態をいつまでも続けるわけにいかず、自分が生きているうちに何とかしようと考え、大坂の陣を企てるのです。1615年の大坂夏の陣で、家康は豊臣秀頼を自害に追い込みます。家康の方が立場的に弱かったので、後々のことを考えると殺さざるを得なかったのでしょう。

家康のイメージが悪いのはなぜ?

 徳川家康は織田信長や豊臣秀吉に比べ人気がないと言われます。それは、秀頼を殺したことが一番の原因とも言われます。また、後に江戸幕府の伝統や権威を否定しようとした明治政府の方針や、家康が始めたのではないものの江戸幕府の鎖国政策によって日本の近代化を遅らせたという悪いイメージも強く残っているのでしょう。戦後は山岡荘八や司馬遼太郎の小説によって、よいイメージも浸透しましたが、今でも人気は高くありません。
 しかし、当時の文献によると家康は忍耐力が強く、人使いが非常に上手だったと書かれています。実際に徳川家に代々仕えていた三河武士はもとより、後から家来になった者もうまく取り込んでいきます。三河一向一揆の際には家康と敵対した本多正信でさえ、後には江戸幕府草創の功臣となりました。家康の度量の大きさが表れているようなエピソードです。

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この学問が向いているかも 人文学部

南山大学
人文学部 人類文化学科 教授
青山 幹哉 先生

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メッセージ

 高校までの教科書に載っている日本史は、あまり面白くないかもしれません。しかし、歴史は一方からの見方だけでなく、いろいろな角度からの見方ができます。例えば、悪法と言われている五代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」も、犬だけを大事にしたのではなく、当時の殺伐とした気風を一掃し、生き物すべての命を守ろうとした、平和的で情操育成をふまえた法律だとする考え方もあります。大学で学んで、自分の頭で再構成すると、歴史はもっともっと面白くなります。

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